私は、世間一般で言うところの「片付けられない人」であり、私の部屋は常に物で溢れ、床が見える面積は年々減少しています。友人や家族が私の部屋を訪れると、誰もが眉をひそめ、一刻も早くこの混沌を整理すべきだとアドバイスをくれますが、私にとってこの部屋は、世界で最も落ち着く究極のリラクゼーションスペースなのです。部屋が汚いと言われるたびに、私は心の中で「これは汚れではなく、私の思考の地層なのだ」と反論しています。整然としたミニマリストのような部屋に足を踏み入れると、私は自分の呼吸が浅くなるのを感じます。どこに座っても汚れをつけてはいけないような緊張感があり、自分の存在がその完璧な空間を汚しているような罪悪感に苛まれるからです。しかし、私の部屋は違います。使い古された雑誌の山も、積み上げられたままの衣類も、すべてが私のこれまでの生活の断片であり、それらに囲まれていると、まるでお母さんの胎内に戻ったかのような、圧倒的な肯定感に包まれるのです。手を伸ばせばお気に入りの本があり、足元には昨夜の夢の続きのような映画のパンフレットが転がっている。この無秩序な配置こそが、私の脳内ネットワークと完全に同期しており、一見するとゴミの山に見える場所から、私は瞬時に必要な情報や思い出をサルベージすることができます。私にとって片付けとは、自分の記憶や感性を強制的にリセットされるような、暴力的な行為に感じられることすらあります。もちろん、衛生面には最低限の注意を払っていますが、それ以外の「散らかり」は、私を社会の厳しい目から守ってくれる柔らかい防具なのです。外の世界では常に「あるべき姿」を求められ、整った自分を演じなければなりませんが、この部屋に戻れば、私は何者でもない、ただの混沌の一部として存在することが許されます。床に直接寝転がり、積まれた本を見上げながら過ごす時間は、私にとって何物にも代えがたい贅沢であり、精神の回復に必要な儀式です。他人がどう思おうと、この「汚い部屋」が私の心を救い、明日への活力を与えてくれる唯一の場所であることに変わりはありません。私はこれからも、この愛すべき混沌という名の繭の中で、自分らしく呼吸を続けていくでしょう。整理整頓された正解よりも、自分だけが知っている居心地のよい間違いの中にこそ、真の幸福が宿っていると信じているからです。