今振り返れば、あの頃の私は完全に正気ではなかったのだと思います。ですが、当時の私にとって、膝の高さまで積み上がったゴミの上を歩き、異臭が染み付いた布団で眠る毎日は、驚くほど平気なものでした。玄関を開けた瞬間に鼻を突く饐えた臭いも、自分自身の体臭の一部のように馴染んでしまい、むしろその臭いがしない場所へ行くと落ち着かない気分になったほどです。仕事で疲れ果てて帰宅し、ゴミの隙間に体を滑り込ませるとき、私はある種の万能感に包まれていました。何もかもが手の届く範囲にあり、自分が作り上げた無秩序な宇宙の主であるような錯覚。周囲からは片付けなさい、人間らしい生活をしなさいと忠告されましたが、私には彼らの言う清潔な部屋の方が、冷たく、無機質で、自分を否定する場所のように感じられたのです。ゴミ屋敷で平気でいられるのは、現実の世界で受ける傷から自分を遠ざけるための、防衛本能だったのかもしれません。物の山に埋もれている間は、将来への不安や孤独、仕事のプレッシャーといった重圧から解放され、思考を停止させることができました。ゴミを一つ捨てることは、自分を支えている脆い土台を崩すことと同じであり、当時の私にとっては恐怖そのものでした。私がこの麻痺した状態から抜け出すことができたのは、ある日、ふと手にした古い写真の中の自分が、今の私とは全く違う、輝くような笑顔で清潔な部屋に立っているのを見た瞬間でした。その時、今の自分が「平気」だと思っていた生活が、実は自分に対する最大級の虐待であったことにようやく気づいたのです。断捨離を始めた当初は、自分の分身をもぎ取られるような痛みがありましたが、ゴミが消えるにつれて、心の中にあった重い澱が少しずつ晴れていくのを感じました。今、私は整えられた清潔な部屋でこの文章を書いていますが、あのゴミの山の中で平気な顔をしていた自分を思い出すと、どれほど心が冷え切っていたのかと、今さらながら背筋が凍る思いがします。平気であることは、時に最も深刻な危険信号なのです。