父が亡くなり、遺品整理のために実家を訪れたとき、私は絶句しました。いわゆるゴミ屋敷というほどではありませんが、長年一人で暮らしていた父の家は、押入れの中や物置がパンパンに詰まり、廊下には中身の分からないゴミ袋がいくつも転がっていたからです。私は兄弟と一緒に、大量の指定ゴミ袋を買い込み、数日間にわたる大掃除を開始しました。作業を始めて痛感したのは、ゴミを袋に詰めるという行為は、親の人生の一片一片を確認し、別れを告げるプロセスであるということです。古びた衣類、いつのものか分からない領収書、そして私たち兄弟の幼い頃の写真。それらを燃えるゴミ、燃えないゴミ、資源ゴミと分別しながら袋に収めていくたびに、父がどのような思いでこの家を守り、そして次第に管理できなくなっていったのかが透けて見え、胸が締め付けられる思いでした。一日に三十袋以上のゴミ袋が家の前に並び、近所の人たちの目が気になりながらも、私たちはひたすら手を動かしました。ゴミ袋が積み上がるにつれ、父が抱えていた生活の重荷を私たちが少しずつ肩代わりしているような、奇妙な一体感すら感じ始めました。最終的に消費したゴミ袋は二百枚を超えましたが、空っぽになった実家のリビングに座ったとき、私たちはようやく父の死を受け入れる準備ができたように感じました。ゴミ袋の中に収められたのは不用品だけではなく、私たちが消化しきれなかった親への複雑な感情も含まれていたのかもしれません。ゴミ屋敷のような状態になった実家を片付けるのは、体力的にも精神的にも限界に近い作業でしたが、大量のゴミ袋の向こう側にあったのは、清々しい解放感と、親という存在への深い再認識でした。ゴミ袋という消耗品を通じて、私たちは一つの時代の終わりを物理的に完結させたのだと思います。これから実家を片付ける予定のある人には、ゴミ袋の数は単なるゴミの量ではなく、親が生きた時間の長さと、それを整理する子供の愛情の深さなのだと伝えたいです。
実家の片付けで直面したゴミ袋三桁の衝撃と親への想い