故郷の実家がゴミ屋敷になっていたと知ったとき、私は言葉を失いました。かつては美しかった庭も、今では不用品が溢れ出し、室内はカビと埃の臭いが立ち込めていました。私の父も母も、決して自堕落な人間ではありませんでしたが、加齢と共に、自分たちの生活を管理するエネルギーが枯渇してしまったようでした。そこで私は気づいたのです。ゴミ屋敷とは、ある日突然起こる事故ではなく、数十年にわたる「決断の先延ばし」が物理的な質量を持って現れたものなのだと。そして、その先延ばしの癖は、幼い頃の私にも確かに存在していました。これは血筋なのかもしれない、と私は震えました。断捨離を開始した私は、両親が捨てられずにいた何千、何万という物たちと対峙しました。そこには、私の子供時代のテストの答案や、使い古したランドセルまでが、執念のような愛着とともに保管されていました。両親にとって、物を捨てることは、過去の幸せを手放すことと同じだったのです。遺伝的に受け継がれた「優しすぎる執着」が、皮肉にも彼らの生活を破壊していました。私は、涙ながらにそれらを処分していきました。ゴミ袋を一つ満たすたびに、私の心は少しずつ軽くなっていきましたが、同時に、自分自身もまた、物を溜め込むことで不安を紛らわせる性質があることを痛感しました。実家の片付けは、私に「今を生きる」ことの重要性を教えてくれました。過去の遺物に囲まれて過ごすことは、未来を浪費しているのと同じです。私は自分の中に流れる「溜め込みの血」を自覚したからこそ、自分の家では極限まで物を減らす生活を選びました。遺伝は運命を規定しますが、行動はそれを塗り替えることができます。実家というゴミの山から救い出したのは、いくつかの貴重な写真だけでなく、二度とあのような場所には戻らないという強靭な決意でした。断捨離は、過去という重荷から自分を解き放ち、今という清々しい風を受け入れるための、一生続く修練なのです。
足の踏み場もない実家から学んだ教訓